超個人的ベストテン モー娘編

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今回はほんとに特に誰も得しない、超個人的な自分のベストテンを紹介するコーナーです。そのはえある第一回目は「いいと思ったモーニング娘のシングルMVベストテン」に決めた。なんでそう決めたかというと、最近なぜか昔のモーニング娘のシングルのMVばかり見ていて、自分の予想をはるかに超えてよかったのでハマっている今のうちにこの気持ちを書き留めとこうと思ったからである。ほんとにただそれだけ。

 

それでは早速やってみよう。まずルールは下の通り。

ルールその1。ベストテン候補は、1998年の1枚目から2006年の30枚目まで。なぜならそこくらいまでのMVしか見ていないから

ルールその2。MVと曲の両方を合わせた評価にする

ルールその3。あくま超個人的な好みなので怒ったりしない

 

 

 

 

youtu.be第10位「シャボン玉」

決めた理由:こぶしのある歌い方がスカッとする

備考:やたらみんな「アイアイ」言う

 

 

 

 

youtu.be第9位「SEXY BOY~そよ風に寄り添って~」

決めた理由:合いの手がクセになる

備考:チマタデウワサノセクシーウワウワッ

 

 

 

 

youtu.be第8位「ハッピーサマーウェディング

決めた理由:ウェディングとインドのかけ合わせが斬新でかっこいい

備考:中澤裕子ツインテールした時のおでこが広すぎる

 

 

 

 

youtu.be第7位「恋のダンスサイト」

決めた理由:アイヤイヤ~アイヤイヤ~

備考:セクシービームより「同じ人なら踊ろぜわいやい」の方が好き。

 

 

 

 

youtu.be第6位「Mr.Moonlight~愛のビッグバンド~」

決めた理由:ミュージカル風な世界観でそれぞれ個性があって楽しい

備考:なぜか「今夜誓うよ」をかたくなに「きょんや誓うよ」て歌ってる

 

 

 

 

youtu.be第5位「女子かしまし物語

決めた理由:一人ひとりの個性が強くて面白い

備考:これ見ればだいたいどんな人いるのかわかる

 

 

 

 

youtu.be第4位「恋愛レボリューション21」

決めた理由:昔からしってたけど改めて見たらかなり尖っててすごい

備考:LOVEマシーンとたまにごっちゃになる

 

 

 

 

youtu.be第3位「ここにいるぜぇ!

決めた理由:聞いてて元気が出るし最後の歌詞がギャップがあっていい

備考:じや~ん

 

 

 

 

youtu.be第2位「ザ☆ピース」

決めた理由:ピースピースの振り付けが好きなのと全盛期の勢いがすごい

備考:歌詞は意味不明(でもそこがいい)

 

 

 

 

 

そしてそして第1位は

 

youtu.be「そうだ!Were ALIVE」

決めた理由:まず曲が色々変化していくギャップがおもしろくて、アイドルとは思えないくらいかっこいい。あと一人ひとり個性が違う人たちが一つに集ってる感じが国民を代表してるようでなんか感動する。まさにモーニング娘の強みを活かしてるようでこのMVが一番好き。サビの歌詞もいい

備考:このくらいのメンバーが一番いいと思う

 

 

以上でおわり。そうかつすると、自分はモーニング娘の個性豊かなところがツボにハマったのだった。一人ひとりにの個性を見抜いて見せ場をつくるつんくや監督もすごい。そしてこうやって一通り見て聞いて昔のモーニング娘のすごさを感じると、AKBとかって人気のある15人くらいでよかったんじゃないかと改めて思った。いる?後ろの人たち。

 

さてさて、こうやってまとめたもののもうすでにあきてきているので次はエグザイルとか聞いてみようと思ったのであった。(すぐ挫折しそう)

 

アイヤイヤ~。

 

 

 

押しちゃいけないボタン

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これは本性なのかそれとも悪魔のささやきなのか、自分はやっちゃいけないことをやりたくなってしまうというめんどくさい脳みそを持っている。やっちゃいけないということはそのほとんどが、世の中にも自分にとっても悪いことであるわけだけど、なぜかついやってしまいたくなってしまうのだ。自分はもうこの時点で宇宙飛行士にはなることができないと確信している。なぜならいくら知識をみがき身体をきたえても、自分はきっと宇宙船の中にあるたくさんの押してはいけないボタンを押しまくり、レバーを引きまくりたくなるからだ。そんなやつだれも乗せたくない。

 

例えば日常生活でどんなときにこうなるかというと、まさに今さっき押しちゃいけないボタンを押しそうになった。自分は近所に新しくできたカフェに今いるのだけど、すごくすてきなところなのだ。雰囲気は落ち着いていて店主も平井堅みたいな顔の優しそうな人、ほかにお客さんは女性一人だけ。このなんとも平和な状況で出されたアイスコーヒーを一口飲んだとき、自分は「まっず!」と大声で言いたくなってしまったのだ。もちろんまずくない。いうまでもなくおいしいアイスコーヒー、というかすごくおいしいアイスコーヒーなのである。だけどこのやさしすぎる空気の中にいるとそこにダイナマイトをおいてみたくなるのがこの脳みそだ。もし「まっず!」と言おうもんなら店主は傷つくは言った自分も傷つくはで誰も幸せにならないだろう。自分は思ってもないのに、そんな腫れものに触りたくなってしまうのである。こういうことがよくある。

 

高校生に入りたてのころに、同じようにやっちゃいけないことをやりたくなってしまったことを今でも覚えている。1年生でみんなが新しい友だちづくりにはげむ中、自分は性格の穏やかでやさしい人と友だちになりかけていた。その時はお昼の時間で、ほとんど初対面のクラスメイト四人で机を合わせお弁当を食べながら話していたのだけど、そのうちの一人が趣味も少し合うし性格もいいしで自分の中でかなり好感触だったのだ。だがそのとき自分は「友だちになりたい」という思いと同時に「このテーブルに乗ってるお弁当全部払い落としたい」という思いにおそわれていた。もしそんなことしようものなら高校デビューがその一発でアッパラパーである。だけどそのスリルにも自分はそそられていたのだ。このやさしいものに触れるとそれを破壊したくなるというところが、人の愛を知らない巨人みたいである(???)。

 

他にも普段から、静かな図書館で「ポウ!!!!」と叫んでマイケルジャクソンを登場させたくなったり、映画館で映画が上映している途中で「サイコーーー!」と言ってスタンディングオベーションしたくなったり(しかも全然サイコーじゃないシーンで)、静かなくらしの中で頭の中はそんな葛藤ばかりしているけど、実際にやっていはいないのだった。だけど小中学生のころには実際に何度もやってしまうことが一つあった。それはゲームをやっているときカセットを途中でぬいてしまうという行為である。これはバグった画面は怖いし何よりゲームが壊れる可能性があるというリスクが高いものの、たったワンプッシュでできてしまうという手軽さがなんとも魅力的で怖いもの見たさに何度もやってしまっていた。だけど一人でカセットぬいて一人でショック受けている光景は、あらためて考えるとただのあほである。

 

どうせこんなことをやりたくなるエネルギーがあるのなら、もっといいことをやりたくなれば社会のためになるのに、自分はそうはいかないらしい。もし何かおいしいものを食べて自分が黙っている時は、思ってもないのに頭の中で「まっず!」と言いたくなってしまっているので止めてください。

 

なんじゃそりゃ。

 

コンコンコンプレックス

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ふと思ったのだ。自分は自分のこの低い身長がもしかしたら気に入ってるかもしれない。図書館でガタイのいい男性二人組とすれ違った時、そう思ったのである。低いといっても170センチないくらいの男としては平均に近い身長だけど、それでも世間からすればもっともっと高い身長がよしとされていると思う。だけど今、自分のこのとても魅力的とは言えない身長に愛着をたしかに感じたのだった。その理由は割と具体的である。

 

それは低身長の少し子どもらしい見た目だ。身長が低いことで、大人になってからでも少し子どもっぽい印象を維持することができるのだ(そうでもないかな?)。身長が高い人たちはその見た目から大人っぽく見られる反面、もう外見で子どもっぽく見られることはないのである。まさにこれは身長が低い人にゆるされた甘い特権なのだ。例えば俳優の阿部寛の前にケーキを置いても「どうも」がしっくりくるけど、阿部サダヲの前にケーキを置いたら「やったー」と踊ってもよさそうである。そんなチャーミングさのゆとりが低い身長にはあるのだ。

 

ここまで自分の低い身長だけに焦点をあてたけど、自分はふだんからコンプレックスは個性なのだと思うのだ。低い身長は欠点ではなくて一つの個性なのだ。逆に高い身長で悩んでいる人がいても、それはそれで個性なのだから欠点に思ってほしくないのである。たまに似顔絵を描くたび、美人やイケメンほど書くのがむずかしく、逆に顔に特徴がある人は味があって描きやすいなと思う。だから言ってコンプレックスが多い人の方がいいということが言いたいんじゃなくて、どっちもすばらしいと思うのである。それにきっと美人やイケメンにだって同じようにコンプレックスはあるはずだ。

 

前にある同級生が「マッケンユウみたいな顔になりたい」と言っていたけど、自分はどっちの顔も魅力的だし個人的には個性の強いその同級生の顔の方がむしろすてきだと思ったのだ。全国民がマッケンユウだったらこんなにつまんないことはないと思う。みんな顔も体系も違う、だからみんながそれぞれ自分と相手の個性を認めあえたらいい。人間はそういうはみでた部分が愛おしいと、自分は思うのだ。

 

だれしもだれしも。

 

 

実はそんなに怒ってないけど

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人と会うことが少なくなると、自然と感情というものが表にでなくなってくる。つい3年前良くも悪くも調子に乗っていた自分は😐😝😞😊😠というような表情のバリエーションを持っていたけど、いまでは😐😐😐😐🙂というほぼ真顔な生活である。大笑いすることも涙を流すこともないけど、別に感情がないわけじゃなくてただ表に出なくなっただけなのだ。あらためて表情は人に伝えるためにあるんだということを実感するのであった。

 

中でも「怒り」という感情は、昔から自分はあまり外に出したことがない。あんまりいい印象がしないだろうなと思っていたし、何より自分が他人を怒れるような立場ではないとわかっていたからだ。でも間違っていたとしても、思っていることを発言することが本当は大事なのだ。そうしなきゃどんどん自分の中にウミがたまるし、もし自分が世間とずれていたとしてもそれすら気づけない。ネガティブな感情を持っていない人間なんていないのだから、怒ることは自然なことなのである。

 

そうは言っても口に出すとトゲがつんつん出るし、そもそも話す相手がいない。というわけで今回は日頃たまっていく自分の怒りの感情をここで発言したいと思う。共感してくれたらうれしいし、お前頭おかしいと思われてもそれはそれでいいでしょう。題して「実はそんなに怒ってないけど」のコーナー、たくさんあるのでテンポよくいこう。

 

 

【音で感情表現する人】

ドアをバーン!と閉めて怒りを表現する人がいるけど、どこよりも安心できる室内でされるとほんとにびっくりするのでやめてほしい。もし老人ホームであれをやろうもんなら数人は心臓止まって死んでしまうだろう。そんな感情表現されるくらいなら、例のスーパーサイヤ人のように「おれは怒ったぞフリーザ」と直接怒っていることを伝えてくれた方がまだましである。

 

あと、その逆の感情である「笑い」を音で表現する人もいる。名付けて「机バンバン手パンパン」である。まあ自然と出てしまうのならしょうがない、きっと机バンバン手パンパン文化が当たり前の家系で育ったのだろうから。だけど笑い声だけで十分なのにわざわざ音を立ててどんちゃん騒ぎにする人が理解できないのだ。素人にそんな上質なリアクションは求めていない。そんな誇張した感情表現はアメトークと歌舞伎の中だけで十分なのである(偏見)。

 

【イケメンじゃないです】

そもそも人間の顔に優劣をつけるのはどうかとも思うけど、自分の顔はお世辞にもきれいとは言えない。だけどギリギリでも「ふつう」と言われる立ち位置にはいたいのだ。そんな中たまに芸能人などのイケメンの中に「いや、イケメンですね」とか「お顔が整ってますね」と言われると「そんなことないです」「ふつうです」と答える人がいる。それを聞くと「いやいや、あなたがふつうだったらぼくたちは人外になってしまうよ、ふつうという唯一残されたぼくたちのユートピアをうばわないでよ!」という気持ちになる。

 

いや本当にふつうと思っているのならしょうがない。それは周りもイケメンに囲まれて生きてきて感覚が麻痺しているのだから。でもわかってて言っているのならそれはいらぬ謙虚さである。だって誰がどうみたってイケメンなのだから。だからすなおに「ありがとう」「うれしいです」でいいのだ。これでいいのだ。

 

【お子さんのご予定は】

たまに芸能人が結婚をすると「お子さんのご予定は」という質問をされることがあるけどなんでそんなこと聞くのだといつも思う。これは言い換えると「セッ○スすんの?」と聞いているのようなもんである。第一そんなこと聞かなくてもだいたい結婚したら子どもつくることは想像できるし、たまにそういう予定がない人がいてもそれを聞いてどうするという感じである。そこにはただ「あ、そうですか...」というへんな空気が流れるだけなのだから。ただ百歩ゆずって、加藤茶の年の差結婚のような特殊な結婚の場合はそこが気になるのもわからなくはない。

 

自転車泥棒

いろんな泥棒は数あれど、自転車泥棒はただの泥棒にはない不幸をもたらすから特にゆるせない。それはなぜか盗まれた子どもが親から責められるという謎の現象である。子どもは自分の大切な移動手段である自転車を奪われて、ただでさえ精神的にショックを受けているはずなのになぜ怒られなければいけないのでしょうか。もしカギをかけ忘れていたとしても、それでも被害者である。だから全国のお母さんはこの「人のものをうばう」という文化が根付いてしまった地球に説教するべきなのだ。そして元凶である自転車泥棒が全くのノーダメージなのがゆるせないのだ。

 

親から怒られることのない大人になっても一緒である。なぜよりによって大切な移動手段である自転車を盗むのか。相手は自分の自転車ではるかかなたなのだから、この怒りの矛先をどこに向けたらいいのかもわからないのだ。自転車泥棒はその顔を見ることがないのももどかしいのである。だから、もう返さなくてもいいからそのにくたらしい顔だけでも見たいと思うのである。今のところの自分の想像では、温水さんみたいな顔をしている。

 

 

今回は以上です、どうでしょうか。いかにどうでもいいことに怒りを感じているかがわかったと思う。本当は17個くらい用意していたのだけど、溢れ出す感情に全然テンポよくかけなかったのでここまで。またたまってきたらこの場を借りて気持ちの整理をしたいと思う。

 

だれしもだれしも。

あこがれのティーチャー

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 自分のことを知っている人からしたら絶対無理やんと思われるかもしれないけど、中高生の頃ぼくは少しだけ小学校の先生になりたいと思っていた。とはいっても将来の夢とかそんな思い入れのあるものではなく、その頃の自分には漫画家や映画監督やゲームクリエイターなどもっとなりたい候補が並んでいて、その中ですみの方にひっそりたたずんでいる程度であった。だからなりたいというよりはあこがれに近かったのかもしれない。そんな気持ちが芽生えたのは、たぶん自分が小学生の頃の先生たちがすてきな人ばかりだったからである。

 

ところでそもそも、自分は小学校の先生という職業の趣旨をおそらくはきちがえている。小学生と小学生らしい会話をしたり、ささいなことに喜ぶ子どもたちを見てウンウンとうなずいたり、それぞれの個性を伸ばすことにやりがいを感じたり。そういうところに魅力を感じて自分は憧れているのだけど、これはきっとこの仕事のほんの一部しか見ていなく、実際はもっと大切な使命や大変な裏側があるだろう。まずこの時点で責任感の足りていない自分は不合格のハンコを押されるけど、そんなのは自分でもわかっている。だから単に「あこがれ」なのである。魔法のランプから青い魔人が出てきて「小学校の先生にしてあげよう」と言われても「いえ勘弁してください」と返すだろう。あこがれと実際やるのとじゃ違うのだ。

 

ただそれにしたって、やっていて喜びを感じる仕事なのは間違いない。夏には植物や虫を観察して改めて自然のすごさを知ったり、クリスマスになったらサンタの話をしてあのワクワク感を共有したり、小学生の頃に学ぶことはなんだか人間にとって一番大切な気持ちばかりの気がする。その気持ちを小学生の目線になってもう一度ひとつひとつ感じることができるのだからそれはきっと貴重な体験だ。実際その頃「総合」か「道徳」の授業で先生に観させてもらった映画のネバーエンディングストーリーやスタンドバイミーは今でも心の奥の方にひっかかっている(ただちゃんとは観ておらず友だちとあくびの涙で号泣してるふり選手権をしていた残念な子どもである)。

 

後で聞いてわかったことだけど、その先生は映画文学を大学で学んでいたらしい。というのも今から少し前、将来のことに悩んでいた自分は小学校の先生に会いに行き、そのまま飲みに連れて行ってもらったのだ。その時に「先生を見て、ぼくは小学校の先生になりたいと思ったことがあるんです」みたいなことを伝えたら、お互いべろべろに酔っぱらっていたから少し記憶がふわふわしているけど、先生はその言葉をかみしめるように喜んでいたと思う。飲み終わって、恩師と飲んで話すなんて終始映画みたいだったなとじーんとしていたけど、自分がそんなドラマティックに終わるわけもない。解散したあと酔っぱらいすぎた自分はなぜか「先生を助けなきゃ」という意味不明な使命感にかられ家とは真逆のあざっての方向に走って行き、案の定オエーと吐いて正気に戻りすごすごと引き返したのだった。なんの話やねん。

 

おわり。

虫が嫌いなあなたへ

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この時期になると、ほとんど虫を見ない日がない。外に出ればまず出会わないことはないくらい大量にいるし、最近じゃ家の中にさえ不法侵入して何食わぬ顔でふつうにいる。虫嫌いにはまさに安息の地はないのだ。そしてその視界に入ってくる虫のほとんどがカブトムシとかそういう立派なもんじゃなく、ただの羽虫か蚊たちである。

 

例えば自分が何かの作業をしている時、羽虫が視界の中に入ってくるとそこそこ集中できない。気にしなければこっちの勝ちなのだけど、一度気にしてしまうともう取り返しがつかないのだ。目の前で何度もくるくる飛ばれたら「へいへい」と煽られているようでたまったもんじゃない。もし自分が真剣に作業しているのに目の前でだれかがコサックダンスをずっと見せてきたら集中できないだろう。それと一緒だ(?)。だけど羽虫の手強いところは、やたら動きが速いのと小さいのとでうまくつぶせないのだ。これはやっかいだ。

 

まあまあ、羽虫はまだいいとしよう。もっと自分がゆるせないのは蚊だ。なぜゆるせないかって、蚊は「ぷーん」て言うのだ、しかも耳元で。これは自分にとってはなかなか不快である。正直もうかゆくなるのはもうどうでもいい、血なんていくらでもあげるよ。だけどぷーんはやめてほしい。まだ起きているときならともかく、寝はじめているときにするのはタチが悪すぎる。というか蚊もあほである。このぷーんさえなければまだ人間から憎まれることもないし、もっとバレずに血が吸えるのに。これじゃお互い不幸せだ、もっと蚊とウィンウィンの関係になりたい。

 

このように、自分と同じく虫を憎む人は数多くいると思う。だけど虫は地球からいなくなることはない、この先も付き合っていかなければならない生き物だ。そんな存在に出会うたび出会うたびヘイトを向けているんじゃなんだか損である。そこで自分が考えた虫をもっと愛せる方法を紹介したいと思う。

 

その方法とは、虫に心の中でアフレコをするのだ。例えば蜂がそばをブンブン飛んでいたなら「こんちはーげんきー?」て言ってるのかなとか、アブが目の前を通り過ぎたなら「ちょっと前しつれいします」だとか、そんな感じ。なるべくポジティブな視点で虫の気持ちになることで、少しは虫のことが嫌じゃなくなるのだ。というかそもそも大前提として、ほとんどの虫は人間に危害を加えたいなんて思ってないはずだ。羽虫も蚊も自分が生きるのに必死なだけなのだ。そう思うだけで少し敬意がうまれてくる。

 

でもこうは言ってみたものの、どうしても嫌いな人はもうしょうがないと思う。その気持ちもよくわかる。カブトムシが大好きな小学生男子も、蚊くらい大量にいたらきっと発狂すると思う。脳内ではあの哀川翔ですら発狂している。

 

かつまた。

 

 

 

その生き方が説得力

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最近たしかに感じてきているのは、人間も結局は中身が大切だということだ。とはいっても容姿よりも性格が大切という意味ではない。なんなら自分は容姿も性格もどちらも大切だと思っている。そうではなくて、その人から生まれる全ての物事はその人の生き方が大きく影響している、ということが言いたいのだ。いま自分で書いていて何言ってんだかわかりにくいのだから、読んでいる人はもっとわかりにくいことだろう。なのでここから具体例をのべましょう。

 

AさんとBさんがいるとしよう。二人とも同じように脚本家を目指しているのだけど、生き方はまるで違う。Aさんはよりいい脚本を書くために小説や映画などを何度も観ては研究し、人間関係や豊かな暮らしよりも自分の夢を優先して過ごしている。一方、Bさんは脚本の勉強はほどほどに、友達といろんなところへ旅行にいったり恋人を作ったりと、色んなことに心を動かして過ごしている。さてこの二人がいざ脚本家になった時、人の心を動かす作品をより多く作れるのはどちらだと思いますか?

 

ぼくは、Bさんだと思う。もちろん、Aさんは脚本のテクニックが十分に備わっているからクオリティの高い物語がかける。だけどAさんの書く人間模様や感情の動きにはきっと説得力がないとぼくは思うのだ。それに比べ実際にいろいろな経験をしているBさんは、肌で感じてこそわかる細かい描写や気持ちの変化を描くことができるから、人の心を動かす物語をより多く書ける。それにもしBさん本人が経験していない題材だとしてもその広い人間関係で話を聞くこともできるのだ。

 

このようにこれが詩であっても絵であっても音楽であっても、その人から生まれるものにはその人の生き方が説得力となるのだと最近よく思うのだ。だからもしAさんが自分の生き方を題材に「夢に向かってひたすらに走り続ける孤独な人」の物語を書いたら、それはいいものになるかもしれない。ただ同じ生き方を続ける限り、それ以上のものは作れないと思うのだ。この例と同じように、シルベスタ・スタローン脚本主演の映画「ロッキー」は本人の生き方が影響されている物語だ。売れなくて貧しい俳優活動をしていたスタローンが、ボロボロになっても挑戦し続けるロッキーに照らし出されているから、説得力があり世界中で愛される作品にまでなったのだ。(本人に聞いたわけじゃないからたぶんね。間違がってたらごめんなさい)

 

とにかくぼくはそういう「生き方」という意味での「中身」が表現には大切ということが言いたかったのです。でもあらためて考えてみると当たり前っちゃ当たり前のことである。見たことのないものを描けと言われても描けない。感じたことのない感情を思い出すことはできない。もしインターネットで調べたり想像をしたりして表現できたとしても、実際に見たり感じたりした人の表現の説得力には勝てないと思う。きっと実際に見てない人が描くいちじくはどこか固そうで、実際に感じたことのない人が演じる別れの涙はどこか嘘っぽくなると思うのだ。また表現だけにかかわらず発する言葉もそうだと思う。がんばったこのない人がいう「がんばれ」と今までがんばってきた人のいうそれでは全く心への入って気やすさが違う。自分の生き方というものは良くも悪くも、どこまでも自分に付きまとうのだ。

 

この日記もウケだけ狙って、思ってもいないようなことを書いたらきっと終わりである。もし読んでる人に良い印象だけ持ってもらいたいからといって、後光がさすような心のきれいな日記を書いたとしても、実際が心のそこそこ汚い自分では説得力がないのだ。さくらももこのようにおもしろいエッセイを書く人は生き方もほんとにおもしろく、益田ミリのように正直なエッセイを書く人は生き方もほんとに正直なのだ。そしてボロボロの生き方をしている今の自分では、このように悩みくさい日記しか書くことができていない。もっと生活に余裕ができれば、どうでもいいような日記をもっとかけるのだと思うけど、今はこんな感じだ。

 

とほほ。