腰は軽くしたほうがいい

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自分は新しいものに触れるのが苦手なのではないか、と気づき始めている。というかよく考えてみれば昔からそうで、これは根本的なものなのであった。自分は大きいことから小さいことまで、とにかく見たり触れたことのあるものの方が好きなのだ。でもそれが良いことかと言われたら、そうでもないということも気づいているのだけど。

 

例えば、小学生から中学生に上がる時、はたまた中学生から高校生に上がる時など、新しい環境や人間関係に毎回メンタルがやられる。たとえそれが好調なスタートだとしても、何か不安な気持ちが常にあるのだ。もちろんワクワクがないわけではない。でも新しい一歩を踏み出す時、ワクワクと不安の比率はいつも1:9なのである。しかし、これはきっと自分特有のことではなく全国の半分以上が同じであると思う。

 

他といえば、音楽もそうである。音楽も新しい人を開拓するのにとても時間がかかる。オレンジレンジが騒いでる時はミスチルを聴いていたし、ラッドウィンプスが流行っている時もミスチルを聴いていたし、バックナンバーが角から飛び出している時もミスチルを聴いていた。ずっとミスチルを聴いていた。その中でも色々好きな歌手は増えたけど、どれも売れてからずいぶんたった人ばかりである。新しい人はなんか他人の気がして不安なのかもしれない。だから米津玄師もあいみょんもその他フレッシュなバンドの数々も、触れてみるもののハマりはしないのであった。腰がおもいのだ

 

思い返せば本当になんでもそうだ。パイの実だっておいしいのに初めて食べたのは1年前(記憶の中では)だったし、おもしろい映画やドラマがあってもなーぜか気合いを入れなきゃいけない気がして観たくなくなる。これはきっと人生を損しているぞ。この間の朝、テレビに出ていたデヴィ夫人はたしか「アタクシ1日に1回は感動するようにしているんでぇすのよ、オッホ(脳内再生)」と言っていた。それと同じできっと1日に1回でも新しいことに出会って刺激を受けたほうがいいはずだ。というか絶対だれかがそれも言ってるとおもう。腰は軽くしたほうがいいよね、若いうちは特に。まだなんでもやれる時間がたっぷりあるんだから、同じ景色ばかり見てたらもったいないのだ。

 

おわり。

さびしさを埋めるために

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今日ふと思ったんだけど、最近自分が音楽を聴いていたりYouTubeを観ていないと落ち着かないそのモヤモヤは、ただ単にさびしさからきているものなのかもしれない。エッセイを読んだりしてもモヤモヤするのに、音楽や動画だとモヤモヤしないのは、その二つにはライブ感があるからかな。とにかくそういう、だれかがそばにいるという温もりを、自分は欲していたのである。でも決してそれはベタベタしたものではなく、カフェで知らない人が周りにいる、というような程度のちょっとした温もりなのだ。でもそんなさびしさを感じるほどに、いま自分は世の中の輪から外れた場所にぽつねんといるような生活をしているのである。そりゃさびしくもなるわな。

 

ところでどんな音楽が落ち着くかというと、最近は森山直太朗ばっかりだ。あの「さくら」で有名な直太朗である。初めて知った昔はなんとも思わなかったけど、森山直太朗の曲はほとんどが友達である詩人といっしょに作詞しているからか、歌詞がすごくいいのだ。もちろん曲もクオリティーが(たぶん)高くて心地いいし、いろいろな国の音楽から影響を受けているのかジャンルも幅広くて聴いてて面白い。あとナイーブなことからユニークなことまで、いろんな感情を歌っているのが人間味があって好き。でもとにかく歌詞がいいのだ。何がいいかっていうと、説明しようとすると長くなる気がするので今回はやめておく。一言でいうなら「わかりやすくて深い」という感じだと思っているけど。

 

ではみんな興味ないと思うけど一方YouTubeは何を観ているかというと、恥ずかしながらゲーム実況ばっかりである。う○こと名のつくゲーム実況者、と言われてわかる人はわかると思うけど、その人の動画ばかり観ている。その人の動画はよく笑わせてくれるのだ。ここ数年あんまり心から笑うことがなくなったのだけど、最近人と会う機会が減ってさらに拍車をかけて笑わなくなった。なのでこういう笑える動画を観て笑うことは、なにげに自分にとっては貴重な時間なのである。だから、別にゲーム実況にこだわっているわけではなくて、ここ数日はうってかわって「やっぱり猫が好き」というシットコム(舞台が固定されているコメディで、有名なのだとフルハウスとか)のドラマをよく観るようになった。くすっと笑えて元気が出るし、登場人物も舞台も毎回同じなのでなんだか落ち着くのだ。シットコムみたいなずっと同じ場所で物語が進む映画やドラマが、自分は昔から好きなほうだったのである。シットコムシットコム、なんだか口に出して言いたくなってくる。

 

こんな風にして、ぼくは周りに人がいないさびしさを音楽や動画で埋め立てしているのだ。でもかわいそうだとは思わないでほしい、本当はもともと一人でいるのは好きなほうなのだ。俗にいう「一人は好きだけど独りは嫌い」というあれである。でも流石にずっと一人でいると、自分は独りなんじゃないかという感覚にちょっとだけおそわれてくるものなのだ。だからまただれかに会えば、このさびしさもすぐ消えるだろう。そしてこういうさびしさは、きっと自分だけではなくだれもが知らず知らずのうちに、気づいてないだけでモヤモヤとして抱えているんだと思う。別に泣けるわけでもなく、怒っているわけでもないけど、モヤモヤみたいな感覚がふいに落ちてくるときがあるのだ。森山直太朗に「悲しいんじゃなくて寂しいだけさ」という曲があるんだけど、言い得て妙だと思うのであった。

 

おわり。

マッドマックス 中学のデス・ロード

中学生になった時、はじめてリアルのやんちゃな人たちを見てカルチャーショックを受けた。通っていた小学校の同級生はほとんどがおとなしい人で、あまりにも平和だったから、中学校の荒れ具合にびびったのだ。でもいま考えてみればその中学は、ルーキーズのようなバイクで廊下を走る変な不良も、感動的なドラマもない、全国的にみればごく普通のところで、小学校がほんとうに平和すぎて荒れて見えただけなのだ。だけど平和ボケしたあの頃の自分にとってはまさに世紀末、マッドマックスだったのである。(「マッドマックス 怒りのデス・ロード」も行って帰るだけの映画だったけど、中学校もまさに行って帰るだけですね)

 

いじめられたりするのが学校生活で一番こわかった自分にとって、やんちゃボーイたちは触れてはいけない爆弾のような存在であり、また理由もなくちょっかいをかけたりそのくせギャグセンスが足りていないところが嫌いだった。自分がギャグセンスあるかと言われたら決して「ある!」とは言わないけど、大しておもしろく料理できないくせに、自分のギャグに悪意で他人を巻き込んでくる人がぼくは嫌いである。だけど中学生のやることだから、今となってはまだゆるせる。

 

そんな中学生活の中、何度かその爆弾に触れてしまうことがあった。というか向こうからアプローチしてくるのだ。爆弾が自ら近づいてくるのだから、こんなに迷惑な話はない。爆弾は校舎の裏で、一人で勝手に爆発してればいいのだ。ある日ぼくが学校から帰ったあと、近所のスーパーにおかしでも買いに行くという、まるでどうぶつの森かのような平和な時間を過ごしていたその帰りに、同級生のやんちゃボーイとその先輩にからまれた。その瞬間どうぶつの森のゲームジャンルがバイオレンスに変わったのである。

 

先輩の方は全く自分のことを知らないはずだけど、その同級生の方に名前を聞いたのか「おい〇〇!」「おい〇〇!!」と後ろの方から自分を呼んでいたのだ。いま考えてもめんどくさい状況である。聞こえないふりをしてそのまま行こうとしたけど、結局話しかけられた自分は「なんのようですか?」と聞いた。だけどその先輩は無視されたことについてばかり文句を言い、何の用かは話さなかった。つまり本当に何の用でもなかったのだ。何の用もないのに話しかけてくるところだけ、どうぶつの森の世界観である。その不毛な会話の後さらっと自分は家に帰ったけど、人生でほぼはじめての「絡まれ」に内心はこわくてたまらなかったのだった。

 

それから、軽く暴力を受けたこともある。「暴力」と書くと大げさだけど、体育館での全校集会の時やんちゃボーイの一人に絡まれ、その時ただペチっとビンタされただけの話だ。思春期でいろいろなことにいらいらしていた中学の自分は叩かれた瞬間、反射的に相手のほほを叩きかえした。もちろん暴力はいけないし、やり返すことでは何も解決しないことはわかっているけど、だけど今でも自分の気持ちに正直に行動したことは、間違ったことだとは思わない。軽いビンタであれ、人から暴力を受けるというのがどんな気持ちか、相手にも知ってもらうことができたと思うのだ。そしてそれがそのビンタボーイからの、ほぼ最初で最後のちょっかいであった。それから一度「これいる?」と給食に出たのりたまのふりかけを押しつけようとしてきたことがあるけど、それくらいである。(その時から自分の心の中でその人の呼び名は「のりたま」となった)

 

こんなことが身の回りにもしょっちゅう起きているから、やんちゃボーイをおとなしい自分が嫌いになるのは当然っちゃ当然である。だけどある日道を歩いてる時、何かをきっかけにふと気づいたのである。そういう人たちにも親がいて、少なからず愛情を注がれているのだ。夜ごはんには食卓を囲んで話したりするし、誕生日には照れくさそうに祝ったりしあうのだ。そういう風景がふと頭に浮かび、自分はどんな人でも頭ごなしに人種を決めつけるのはやめた。中学はあまりにも思春期をこじらせ、いろいろな考えを持つようになったけど、中でもこのことに気づけたのはよかったと思う。

 

おわり。

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ささやかなシンギュラリティ

アイフォンの音楽をシャッフル再生しているとよく思う。「こいつもしかして、意思があるんじゃないか」と。それは天下のアップルの技術のたまものだから、曲を聴いていくうちに好みを学習するくらいのことはできるだろう。だけどそれにしても人間っぽすぎるんじゃないかと思うときが多くあるのだ。しかもかなり図々しいタイプの人柄である。

 

例えばこのアイフォン、シャッフル再生でちょっとスキップせずに1曲聴き終えるだけで「あ、このアーティストが好みなんですね!」とばかりに次からそればっかり流してくることがかなり多いのだ。違うのに。その曲だけが聴きたかっただけで今はスガシカオばっかり聴きたくないのに!と彼の余計なお世話に困らされる。一周回って気がきかないところが、逆に機械っぽくない。

 

ほかにアイフォンは、自分の考えをよんでくることがある。たまにシャッフル再生を流し聴いている時、頭の中では別の曲のワンフレーズを思い浮かべていることがある。そしてその曲を次に聴こうかなと思ったやさき、勝手に次にその曲を流してくるのだ。しかもこれ、音楽を聴いてれば週に1回以上はやってくるのだ。これは気がきくけど、ちょっとゾッとする。自分のアイフォンに入っている曲数は約1300、この現象はもしかしたら週1でなら必然なのかもしれないけど、そうであったとしてもこっちとしては「え?なんでスティーブ・ジョブズおれの考えることわかるの?」となかなか感動ものである。(スティーブ・ジョブズがわかってるわけじゃない)

 

今のは良い例で、ほとんどアイフォンの人間みたいな態度は、最初に挙げたみたいな困ったちゃんなものが多い。一番困るのはバッテリーの充電問題だ。もしアイフォンを使っていて、バッテリー残量が8パーセントになったとする。「お、そうね充電しなきゃねごめんよ」と充電コードにつなぐと「ピコーン、バッテリー残量28パーセント」とアイフォン。充電してほしいからって20パーセントもサバよんでんじゃない!たいして死にたくもないのに「しにたい」とかつぶやいているかまってちゃんみたいな態度である。スティーブ・ジョブズはとんだメンヘラやろうなのだ。この逆もあり、アイフォンの充電がなくなってきたので充電コードにつないだ瞬間、息絶えることがある。いや、苦しかったなら強がらずに言ってよ!スティーブ・ジョブズはめんどくさい性格なのかもしれない。

 

こんな風にアイフォンは、ちょっと人間よりも人間っぽいところが多々ある。もしかしたらAIが人間の知能を超えるというシンギュラリティは恐ろしいものじゃなく、機械のくせにドジな一面もあるおかしなものになるのかもしれない。

 

おわり。

 

※アイフォンが「アイフォーン」なことは知ってますが、ぼくにとっては「アイフォン」なのでその発音で言わせてください。というかアイフォーンとか言ってる人いたらもちろん受け入れますが、心の中ではちょっと引きます。

 

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席をゆずるのがめんどくさい

電車で座っている時、お年寄りに席をゆずるかゆずらないか、難しい選択をせまられる時がある。一般的にはゆずるのが大正解なんだろうけど、自分の場合は違うのだ。だからもし座っていて、恥ずかしながら自分の前にお年寄りが立っても席をゆずらないことは多い。それはお年寄りの苦しむ姿が快感だとか、どうしても電車のイスに座ることが好きだとか、そういうことではない。ゆずれるものならゆずりたいのだ。

 

そもそもなぜゆずらないという非情な選択をするかというと、一番最初のきっかけは小学生の時にある。そのころの自分は映画やアニメに影響されて「正しいことをすれば人から好かれる」というねじ曲がった心を持っていたので、気まぐれに無駄にゴミを拾ったり倒れた自転車を直していたりした。そしてもちろんお年寄りにも、心の中はしたり顔で、席をばんばんゆずっていたのだった。そんな中いつものように席をゆずろうとしたところ、なんとお年寄りに「いいです」と断られたのだ。正しいことこそ最強と思っていた自分は頭がこんらんした「え?いいの!?!?なんで!?!?」。優しさと優しさがぶつかり合うとこんなにもめんどくさいのかと、小学生ながらに初めて感じた瞬間であった。「優しさ+優しさ=幸せ」で「優しさ×優しさ=めんどくさい」である。

 

それからというものの、中高生の頃にはもちろん席はゆずるものの「この人は断るかな」とかいちいち考えるようになった。心が綺麗な人からしてみれば「別に断られてもいいじゃん」と思うだろうけど、心の汚い自分からすれば断られるのが、あの人が密集した中では結構はずかしいし、何よりその優しさをぶつけ合うやりとりがめんどくさいのだ。いわば優しさのボクシングである。しかも相手は弱者というハンデ付き。これはめんどくさい。あーめんどくさい。

 

ここまでくると、お年寄りだからって席をゆずるというのは、かえって優しさとは言えないのではないかと、ソクラテスばりに哲学をめぐらせはじめる。本当にゆずるべきなのは座らないとしんどい人たちであって、座らなくても元気な人にゆずるというのは相手が運動するチャンスを奪うことになるのではないか。席をゆずるという行為の本質をみんな忘れているんじゃないだろうか。というかあんまり関係ない優先席のことだけど優先席空いてるんだからどうみてもボロボロのお年寄りは優先席座れよ!お年寄りがふつうの方座るからいつも逆になって優先席座るの気まずいわ!どうみても優先であるアンタが使ってよ!変に「まだまだ若いぞ」プライドもつなよ!あと今更だけど優先席ってなんであんな汚いの多いの?あれじゃお年寄りも座りたくないわい。

 

...少しとりみだしました、すみません。というかこんなことになるんなら優先席はいらないと思うのだ。優先席をつくるんじゃなくて、電車に乗る人みんなが、座ることが必要な人には席をゆずり、座ることが必要な人は気楽にお願いできるという考え方を持っていれば優先席なんていらないんじゃないかと思うのだ。

 

話をもどすと、とにかく自分としてはもうこの駆け引きがめんどくさいのだ。もう感謝されようが社会からいい目でみられたいとかそんなことはどうでもよくて、ただめんどくさいのだ。もうすぐ自分の駅だとか、立っていたいとか何か理由があるのなら別だけど、特に理由もなく「優しさがえし」的には断ってほしくないのだ。そうされると逆に自分みたいな自意識過剰な人間は少し傷つくのである。だから最近はもう話しかけるのはやめて、目の前にお年寄りがきたらもうすぐ駅のふりをして何も言わず席を立つ形で席をゆずってしまう(?)ことが多い。本当は目と目で会話してゆずる方がいいのだ。それはわかっているけど、めんどくさいのだ。あーめんどくさい。

 

おわり。

一人でいる人たち

一人で何かしている人を見るのが好きだ。一人でソフトクリームを食べたり、晩御飯の買い物をしたり、何か思い出し笑いをしたり。そういう人を見ていると、行動一つ一つにその人の人柄が表れていて「そんな一面もあるんだ」と初対面なのに思ったり、なんだかほっこりとした気持ちになる。だからドッキリ番組なんかで誰かの行動を観るのがかなり好きである。僕はそんな一人の人フェチ(?)だ。

 

中でも、一人で「楽しんでいる」人を見るとキュンとする。例えばこの間の昼過ぎ、図書館で本を見ようと自転車を走らせていたら、その図書館の近所の川沿いにつづく並木道のふちで、座って本を読んでいる大人っぽい女の人がいた。図書館で借りた本を読んでいるかはわからないけど、読みたい本をわざわざこのロケーションのいいこの場所を選んで読んでいるというその工夫がいいなと思った。そうやって読む場所を決めている姿を想像するだけでもほっこりする。これは70キュン。

 

これは別に女の人に限ったことではない。そこらへんにいるスーツをきたおじさんにもキュンとさせられることがあるのだ。例えば昨日、スーパーでビールとおつまみを大量に選んでカゴに詰め込んでいるおじさんを見てキュンとしたり、コンビニでバイトしていた頃、見た目が真面目そうなサラリーマンが朝チョコボールを2つ買っていったのを見てそのギャップにキュンとしたり、他にも駅でお土産を選んでいる横顔なんかを見るとこれは80キュンはいくだろう。そこには「誰かに見られているから」というエゴから生まれる雑念はないのだ。あるのはその人の純粋な気持ちだけ。僕はそこに惹かれるのである。

 

中でも最近90キュンな人を見かけた。それは21時くらいの日もすっかり落ち、僕が自転車で自宅のそばまで帰ってきた時。部活帰りか何かの女子高生が、きっと夜中で誰もいないと思ったのか一人で歌って歩いていたのだ。そして特に「おお」と思ったのが僕が通り過ぎてもその女子高生は歌うのをやめなかったのである。恥ずかしがって歌うのをやめるのにもキュンとくるけど、割り切って歌い続けるその判断に逆にキュンとしたのだった。きっと他人からどう思われるかよりも、自分が歌を歌いたいという気持ちの方が強かったのだ。その歌うということにこだわる姿がツボであった。

 

こういう人を見て癒されるのは、犬を見て癒される感覚と少し似ている。犬は「今の仕草思わせぶりだったかな」とか「がっついたら意地汚いやつって思われないかな」とか余計なことは考えない。そんな本能のまま純粋な気持ちで生きている犬を見て、われわれ人間は癒されているのだと思う。それと同じように、一人でいる人というのは誰かに見せるわけでもなく、ただ自分の思うがままに行動している。そのエゴだとか評価だとかを気にしないで生きている姿は、僕にはとても生き生きしているように見えて、人間というのもぜんぜん捨てたもんじゃないな、と癒されるのだ。

 

それとこれは、僕が一人でいることが多いからというのもあるかもしれない。誰かと一緒に行動するよりは、一人でいることの方が圧倒的に多かった。だからこそ一人でも楽しめる考え方や行動をしてきていた(つもり)なので、そういう一人で楽しんでいる人を見ると親近感を覚えるのだ。でもそれって結局はさびしいってことなのかもね。

 

おわり。

 

 

 

 

僕はインターネット依存症

例えばパソコンをいじっていて、ツイッターを開いているのにツイッターを開こうとしたり、ユーチューブを開いているのにユーチューブを開こうとしたことがあるそこのアナタ。もしかしたら僕と同じインターネット依存症かもしれません。

 

ツイッターを今まさに見ているのに「あ、そうだツイッター見よかな」と新たにツイッターを見ようとする、という意味不明な行動は僕にとっては日常茶飯事だ。これはメガネをかけているのにメガネを探すというあの行動に近いものがある。ちなみに僕はそれもやったことがあるが、あれはメガネが身体に馴染みすぎてかけていることすら忘れてしまうから起きる現象だ。ということはツイッターの方もそれと同じで、ツイッターを見ていることがもはや生きていることの一部になってしまい、自分がツイッターを見ていることすら忘れているからやってしまうのだ。あーこわ。

 

インターネット依存症の症状は他にもある。これはまだ依存する前の人でもやってしまいがちな行動だと思うが、命名するとすれば「用事もないのにうろうろ症状」だ。例えば、特に用事もないのにツイッターを開き、特に用事もないのにユーチューブを開く。そして特に誰からの連絡もないのにメールを確認し、また特に用事もないのにツイッターを開く(to be continued...)。まるで、休みの日特に用事もないのに街に出かけたけど、行くところがないので色んな百貨店をうろうろうろうろ回るのと同じように、インターネット上でずっと続く症状だ。この症状がある人は、自分で「何やってんだろう自分」と思えるのならまだ救いようがある。あなたは全く意味のなさない行動をしています、今すぐ他にやるべきことを確認しましょう。

 

僕は、このインターネット依存症(自称)にかかって改めて依存症の強大さを知った。というかもうインターネットはここまでくると薬物と同じなんじゃないかとすら思えてきた。一度その便利さにハマったら抜け出せない、そしてどんどん自分の他の可能性をうばって行くこの症状、ちょっと似ている。あと用法容量を守れば健全なものであるというところも似てるかな。僕の場合はリハビリが必要なレベルである。

 

さて、これを踏まえて一週間インターネット禁止生活でもしようかなと思いましたが、それをすると普通に生活に困るし、精神的にも本当に無理だと思ったのでやっても3日か、それかインターネット使わなくても生活に困らない時間ができたら山にでもこもろうかなと思います。

 

おわり。